昭和42年07月20日 朝の御理解
金光様の御信心は先ず、天地の親神様と私共の関係というものを、知るところからの、付け焼き刃ではない、本当にその身から打ち込んだ信心にならなければおられないのでございます。
唯おかげを頂くから打ち込む、おかげを頂くから一生懸命になる、といったようなものじゃないと、おかげが有る無いに関わらずね。おかげと感じる感じないは別としてです、天地の親神様と私共の関係というものは、ね、親が都合良うしてくれるか、してくれないから、もう親と思うとか思わないとかといったようなもんじゃない。例え馬鹿でもチョンでも親は親、ということになってまいります時にですね。
どこの親と替えてやる、というて替えてもらえれるもんでも無いし、又そんな気も、どんな馬鹿でもそれこそやっぱり、親は親としてのつながりと云うものがあるから、よその親と替えてもらいたいと、あすこの親のごと器量が良かったり、立派であったりするならそれと替えてもらおう、と云うような気も起らんのと同じようなもの。ね。
金光様の信心はそこのところを私は先ず把握していかなければならない。そこでその天地の親神様、私共の事を氏子と呼んで下さる、いわゆる氏子と親神との関係と。親と子との関係というもの、続柄です。どういうところから、そういう関係にあるのか、成程そういう関係にある証拠に、こういうようなおかげが受けられる、というところを知らなければいけません、ね。
いうなら天地とのつながりと云う事にもなるでしょう。大天地と私共のつながり、それをある人は大天地と云い、又は私共を小天地と。大天地に備わる一切のものは、この人間氏子の中には、小天地としての天地と同じだけのものが、私共の心の中には備わっておるんだと云う。ですから大天地と小天地との、そのつながりというものがです、成程天地が自由になるようなおかげも受けられるんだなあということが分かる。ね、ですからここでおかげが受けられやったから何々様に参ろうと云うようなもんじゃない、ということですね。金光様の御信心は。
皆さん、そこんところの言わば分け合いと云うか、続柄と云うかね、神様とのその関係と云うものが、密接に分かって行けば行くほど、成程親神様だなあと云う事にもなって来るのでございます、ね、それがおかげを頂くという時にそれを感じることもございます。本当に撫でたり、さすったりするように信心も出来ませんのに、このようなおかげを頂いて、ということを感じるのですけども、それよりももっともっとですね、私共がそのひとつの難儀に直面した時、痛い思いをするような時、いよいよ私は神様と私共との間というものを、深く感じん訳にゃまいりません事が、いくらもございます。ね。
どうでしょうかね、親の無い子と親の有る子程の違い。信心さして頂く者と、信心さして頂かない者は、親の有る子と無い子程の違い、というものがです、感じられてくる。それは、んなら有難い撫でたりさすったりされるような時だけではなくて、いうなら母性愛的な親の愛情の中に包まれておるという時だけでは無くて、ね、それこそ厳しい夏の日にも似たような厳しい、言わば教導を受ける時、間違えば叩きもする、間違えば叱りもする。親が無かったら、そんな事ありゃしません、ね。
例えば浮浪児なんかの言わば我侭勝手な生き方、生活というものが、それなんです、お金ばちっともろうたら、もうそれで買い食いをする、我がよかごつ、自分の気侭放題なことが出ける。ところが、親が有りますと ねさあ頭はつめ、捕まえとってからでも頭をつんでやる。着物が汚れとりゃ洗濯をして綺麗な物と取り替えてもくれる。爪が伸んどりゃつんでもくれる。顔が汚れとりゃ洗うてもくれる。その代わりに云う事を聞かんと押入の中に押し込んでからでも、又は叩いてでも、そこんところの性根を改めさせようと云うのが親であるように、天地の親神様もそこなんである。
私共が、暗ーい今思いの中にある時にはですね、今あなたは押入の中に押し込まれておると思うて、間違いないです、ね。痛い思いをする時にはです、ね、本当に今、親から折檻されておる時と思うて間違いないです、ですからその手に縋って、私は、有難うございますという心も頂けてくるのですよ、ね。こうして神様が私を、言わば鍛えて下さるというのです。
天地の親神様と、私共との間というものをです、そういう仲に分からして頂いてこそ、実は本当の、ね、例えば神様はもうそれこそ、人間の言いなり放題、甘いものが欲しいといや甘い物、辛いものが欲しいと云や辛い物を与えて下さるのが神様のような思い方は間違いなんです。そこんところを一つ分からして頂いてですね、親神様と私共との関係をいよいよ深めて行かなければいけんのです。同時に天地との密接な関係。大天地、ね、その密接な関係が分かるところに、成程大天地に対するところの小天地であるな、ということを私共は感じることがございます。
昨夜は、合楽会でございました。私は有難いと思いますことは、さあ、こうしてから合楽に金光様がでけた、合楽の部落の方達がまあ何と云うでしょうかね、物見、物見というよりも、まあ珍しい、一辺あすこ中ば一辺見て見たい、といったような人達の気持のようなものが、この合楽会が出けてきたり、又合楽会の時にはみんなが集まってこられるような雰囲気を感じておった。ところが、どうしてどうしてその回を重ねるごとにですね、それに非常に熱心になっていかれることです、皆さんが。
昨日はやはり、やんがて四十名近くの方達が集まっております。それに土井、椛目の方達がお参りしておりましたから、みんな参加し、云うなら信心の先輩として、それこそ、あの、それこそ合楽の方達のひとつのこう勢いというかね、云うならそういう比礼に触れてですね、もうみんなが帰ろうというのがない。私も一口話さして頂こうといって、先輩としての話をめいめいなされるんですよね。そういう中にいわゆる新旧交えての信心の共励が、いつも十二時迄に決まってるんですけれども、兎に角時間が経つのがもう惜しいように。
昨日ここに部落の中心になられる方達の男の方達も見えとったり致しましてですね。非常にその信心の何と云うですかね、確信に触れていくとまではいかないに致しましてもです、金光様の御信心がどういう信心かというものを、こう求めていかれる。ね。そういうようなおかげを頂いて、ま本当に有難いことだなと、いわゆる本当なものになっていきよる。ただ、みんなが行くけんついて行って見ろうか、といったようなのもございましょうけれどもです、本当に金光様の御信心とは、というものをです、矢張りこの目で見たい、確かめたい、そして本当のものならば自分たちも信心さして頂きたい、というものがあるのです。
ですから本当に微妙な大事な時だという風に感じさしてもらいました。その中にどういう事からだったでしょうか、あの八月五日の田ぼめ、田誉め、というものが昔はやっておりましたけど、最近はそういうことをする人が段々、もう本当に無くなってしまった。私共は小さい時、よう憶えとります、酒屋をしておりましたからね。お酒を買いに見えるんですよね。そしてあの畔くらへ立って、このまあ、田を誉めて、ね、田にも一杯こうさされるんでしょ。自分もお相伴しながら田を廻るというような、ひとつの風習、何ともいえん田園風の、何ともいえんその雰囲気ですね。
科学万能、まあ例えば肥料でも、もう化学肥料が中心、もうこの頃では空から肥料でも施そうか、といったような時代なのですから、そういうようなことが段々影を薄うしていくということも、これは当たり前のようですけれども、昨日あちらの部落長さんでしょうか、合原さんというですか、椛目におられます方のお兄さんです。その方が見えておられましたから、あの今でもあれなさるんですか、ち云うたら、いいえこの頃そげなことする者がおらんごとなりました、ち云う話から、いわゆるその、天地の御恩徳を説かして頂いた後でございました。どうでもこうでも一つ今年あたりから、合楽だけでも良いから一つ始めなさったら、どうでしょうか、ね。
もう本当に素晴らしいことですよ、と。例えば黒々というならあの稲が育っていきよるのに、はあ見事、なんと天地のお恵みというものは、なんと大した事であろうかと、人間の知恵や力で出来るこっちゃなか。成程種は蒔いた、肥料も施した、水も引いた。それだけで出来るこっちゃ無い。いわゆる天地のお恵み、天地の御恩恵に浴しなければ出来ることではないが、天地の働きのなんと素晴らしい事であろうかという、天地を称えることなのだから。これはもう信心にもつながること。私はそういうような催しが、もしあるとするならば、お神酒だけは私がおかげ頂きましょうと言うてから話したことでした。
ね、例えば百軒の中にその、まあ一合ずついったって一斗ですからね、十本あればいい。ね、足りなければそりゃ二斗が三斗いっても、そりゃかんまんと思う。そういう素晴らしい催しが、例えば合楽の、合楽だけにはです、合楽の部落の者全部が必ず八月五日には、天地を称えてまわる、稲を誉めてまわる、そういう何ともいえん有難いことが、これから又そのなされるならばです、私も本当にひとつ協力さして頂こう、と云うてお話したことでしたけれどですね。とてもこれがですね、おかげにならん筈がないです。
あれはどなたでしたでしょうか、あのう花を作られる方がですね、花が咲いた、咲くともうそれを誉めてまわられると云う。もう私の方の花の出来損のうたことが無いと云われる程に、花って云うか菊作りの何か名人の方の話だったんですね。成程自分が一生懸命、丹念に虫も捕った、肥料も施したんだけれどもです、その花びらの一つ一つを自分が作るという事は出来ないのだ。これは信心される皆さんの中にもですね。
もうそういうような例えばふうたらぬくい行事なんかというものは、と云わずにですね、こうした言わば科学万能の時代にです、そういう何とも云えん良い昔からの風習といったようなものは、どうでも取っておきたいものだと云う風に、私は感じるんです。それが信心につながる。今日私が申しております、天地とのつながり、天地の親神様との続柄が分かって来れば来る程にです、その田誉めの行事というものが、どのように百姓にとって素晴らしい事か、と云うことが分かってくるんだろうと私は思うのです、ね。
これは皆さんがですね、田誉めだけのことじゃございません、ね。自分達の周辺に様々な、例えばその見事なおかげが現われてくる時です、ね、それを誉め称えることは、天地を称えることと同じ事なのです。そこで例えばこの天気が悪い時でも、今日は困ったお天気ですね、といったような風にはお道の信心をする者は、まあ、云われない、云うてはならない、というように教えられております。おしめり。結構なおしめりでございます、と。結構なお日照りでございます。
ちょいと暑かのう、まちょいとやりきれん、ちょいと雨どんばっかり降ってもうらめしかと、例えばですね、もう降ればうらめしか、照ればいやらしかと云うような思い方、考え方ではいつまで経っても、私は天地の御恩徳とその、つながっていくことは出きんと思う。本当にこの日照りのおかげで作物が、このように見事に出けていくんだ。おしめりのおかげで一切の物が潤うていくのだと。ね、そこんところを私共が天地、特に金光様の御信心さして頂く者は、この天地のつながりということを密接にしなければならない、思わなければならない。
そこに私はその人の為に降り、その人の為に照り、その人の為に天地が自由になって下さるようなおかげが、又頂けれるということが分かります。ね。それは天地とのつながりをいよいよ密接にですね、感じ取っていかれる方達の上に、そういうおかげが受けられます。自分のこの五体のこと、一切の事がです、天地とのもう、それこそ天網恢々疎にして洩らさず、というようにです、もう疎かにどういうようなことでも、天地というものは疎かになさることはないのだ。その疎かになさる事の無い中に、この難儀がある、この病気があるんでございますから、そこんところの道理が分からして頂いてです、そこに詫びる、御礼がいえれる、というところに、おかげの頂けん筈が無いです。だから天地に詫びなければいけません。
ね、夕べは西田さんも、お見えになっておられましたから話すことです。あなたが例えば六十才でおありになるならばです、ね、六十才という六十年間という間、天地の御恩恵に浴してこられたんです。天地のお恵みがあって、今日までおかげ頂いてこられたんですもの。ですから六十年間の間、この天地の親神様という神さまを知らなかった。それがこういうひとつの難儀の中から、神様と縁がつながってまいりましたのですから、天地に対するところのお礼やらお詫びやら、なさった上に、これからの願いという事がなされるなら、有難いことになる、というようなお話でした。
ね、私共が天地に対するところのお粗末御無礼、そこで金光様の御信心をさして頂きますと、大地をみだりに汚すなよ、この神様、荒地荒屋敷をお嫌いなさるといったような御教えが生まれてきたのですよ。ね、天地を生かさにゃいかん、いかに生きてござると云うても、それを活かすのは私共、ね。どんなに沃土といわれるところがありましても、種も蒔かなければ草も取らん、肥料も施さんでは何も出来ません。
神様はそういうところを一番お嫌いなる。ね、ですから又御地内をみだりに汚すなよ、ということにもなってくる。今までは平気で大地に対して、ね、汚物を流したり、又は唾を吐いたり、言わばもう小便大便でも、子供なんか前に出しといてから平気で御地内を汚すようなことをしておったんですけれども、天地の親神様、天地が親だと分かった時にです、とてもそれが出来なくなった。言わば汚れておるなら、そこを清めなければおられなくなってきた。天地のつながりが段々深く分かってきたからなんです。
ね、天地を称える、ね、天地を大事にする、大地を大事にする、大地を拝む、大地にひれ伏す、ま何とその素晴らしい事だろうかと私は思う。ね、そこんところの信心が根本的に分からしてもらってです、金光様の御信心の尊さというものは分かってくる。もうおかげ頂かんなら何々様もござるけん、といったようなもんじゃない。例えどうであろうが親神様なのだもの。親とのそれを切るわけにゃいかん。その親子の縁というものを、いよいよ密にして行く以外にゃ無いのである。
それも撫でたりさすったりされるような、甘いおかげの中からよりもです、場合には折檻もされる、場合にゃ小言も云われる、間違えばお気付も頂くというような中にです、成程天地だなあ、成程親神様だなあ、私共、小天地であるところの私共を、大天地であるところの天地の親神様とのつながりというものがです、ね、いよいよ密になつて行く、ということが信心が深うなって行くという事だと私は思うのです。
ですから皆さんそこのところがあの、根本に分からして頂いてのおかげであり、分からして頂いての信心であり、修行であるということになるのでございます。信心が何様も神様も同じ事ちいうのじゃないのです。ね、そういう私共は天地が天地として私共がそれを、お生かしを頂いておる、おかげを頂いておるから、又天地は私共が活かそうとする努力、それが信心生活なんです。
いわゆる神様を称えるということはです、私共がおかげを受けて、ね、何と天地の親神様のお働きの素晴らしいことかという、そういう実感、それが称えるのです。ですから喜びに喜んでと、こう仰るように喜びに苦労はないと仰るのは、一切称えるということは、一切ということは、もう天地一切を称えることなんです。おかげ頂きまして有難うございましたと云うことは、天地を称える言葉なんです。ね、ですからそこんところを、に、この思いを致しましての修行であり、信心でなからなければならない、
そこが分らんと信心の、いわば根底から狂うてくる。どうぞ私共の親神様に対するところの思いがです、これで良いのか、親神様に対する自分が応えさしてもらう、ということが、これで良いのかと、そういう風に私はおかげを頂かしてもろうて、私は今度の八月五日のその田誉めの式に私も、どうでもひとつ部落の方でもし思い立たれるなら、私も協力さして頂こうと申しましたがです。皆さんが天地を称えられる信心がお出きになられたら、私はそれこそ粉骨砕身、皆さんの為に、私は協力を惜しまないつもりです。
天地の御恩徳がいよいよ分かっておいでられるならば、いよいよ親神様とのつながりを感じ取っておいでられるならば ね、もうこのように有難いことはないのでございます。ね、天地がまる生かしに生かして下さるおかげをですね、日々の中に生かされて生きておる喜びというものを謳歌していく。ね、そういう私は信心生活そういう信心が金光様の信心には、どうでも必要であるということでございますね。
どうぞ。